今朝方、苫米地博士のギターライブを聴きに行っていた私です。
苫米地博士から新年にまつわるお話がありました。
「東京MX-TVで時間があったら話していたんだけどさ。
時間がなかったので言ってませんけれども」と、いう前置きがあったので、
「勝手に(私の自己責任で)」このお話は公開してもよろしかろうと思い、というか、
公開しないと公共の利益に反するであろうと思い、その内容をピックアップさせていただきます。
たしか、去年別のところで苫米地博士から聞いたぞ、このお話。
果たして皆様にとって間に合うのかどうか・・・間に合えばいいなあ!

(1)「新年の抱負」はコーチングの観点からみると最悪である
・コーチングでは、物事を実現するための宣言(アファメーション)は
「私はすでにこうである」「私はこういうことをすでに実現している!」というものとなります。
「新年の抱負」で「私は今年◯◯を実現します!」と宣言する行為は、
それとは真逆なのがお分かりいただけますでしょうか?
つまり、「新年の抱負」は「その◯◯ができていない自分」を認識・肯定し、強める行為なので
真逆の作用が働きます。
よって、最悪の場合は自分に対する自信や評価を下げて、
その望みが叶わないように足をひっぱっちゃうという結果に! あらまあ。大変!
「コーチなら、『新年の抱負』を人がやっているのを見た時点で
『それはコーチング的には正しくない!』と、優しく指摘してあげるように」
とも、苫米地博士には言われましたが。
私は朝に勉強会を開催していたので、すでに元旦のお昼時ですよ。
皆様の行為を止めるのに間に合うんだろうか?

(2)初詣で100円で神様に願いを叶えてもらおうって、甘くない?
ゴールを達成するためには、自己評価(エフィカシー)をあげるのが先なのであります!
ところが、神頼みという行為はそれとは真逆なのではないでしょうか?
ましてや、「『神様叶えてください』と他力本願なところに、たったの100円で叶えてもらおうって、
どんだけエフィカシー(ゴールを達成できるという自己評価)が低いんですか? 」というお話です。
信仰の自由がありますので、止めはしませんけれども。
せっかく詣でにいくのであれば、「私は神社に貢献する!」とばかりに、
修繕費見合いとして太っ腹に1万円くらいお賽銭として出してきて下さいませ。
(3)多くの場合「新年の抱負」は現状の延長線上のものである
せっかく目標を考えるのであれば、大きなゴールを考える必要があり、
そういう大きなゴールは言っても家族にも理解されないものであるケースが多い。
それなのに、「新年の抱負」の場合は周りに言うことが前提となっている。
現状の延長線上にある、すぐに叶いそうなゴールを掲げること自体が自己評価を下げ、
「どんだけ小さいの、自分?」という追認となり、ある意味で精神的な自傷行為にあたる。
以上3点、新年からキツイお話なのでした!
(追伸)
動画でご説明しました。
* * *
私自身がごく最近まで「新年の抱負」をブログで書いてましたが(最悪なのであります)、
コーチになったのでやめたクチです。
コーチなら、ごく自然に新年の抱負は「マズイ」という違和感があるので、やらないのです。
私自身は以上のことは苫米地博士のコーチングの講義を通して知っていて、
だからこそ、年末年始に「朝のアファメーション勉強会」を行っています。
新年のことを考えるのは結構なのですが。
どうせ目標を書き出すなら、それは「アファメーション」の形式にしてください!
ナニ? アファメーションの書き方がわからない?! 私の朝勉強会に来なさい!
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